富谷市

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内ヶ崎作三郎ってどんな人物?~内ヶ崎作三郎の基本~

更新日:2021年03月01日

内ヶ崎作三郎ってどんな人物?~内ヶ崎作三郎の基本~

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内ヶ崎作三郎(1877年~1947年)

Q1 生まれについて知りたい

明治時代初めの1877年(明治10年)、宮城県黒川郡富谷村(現在の富谷市富谷新町)に生まれました。
生家は、1864年(元治元年)に味噌醤油業を開業した内ヶ崎醤油屋でした。

Q2 何をした人物ですか?

内ヶ崎作三郎は、主に「宗教家」「学者」「政治家」の顔があります。

「宗教家」としては、21才の時に尚絅女学会(現在の尚絅学院)の宣教師であったアニー・S・ブゼルによる「バイブルクラス」に参加し、吉野作造(古川出身)らとともにキリスト教に入信し、クリスチャンとなりました。
鈴木文治(栗原出身)とも親交を深め、労働運動を指導しただけでなく、アメリカのボストンで開催された第8回世界宗教大会における日本代表者になったこともあります。

「学者」としては、31才の1908年(明治41年)にイギリスのマンチェスター学院に宗教、哲学、文学の研究を目的として3年間留学をしました。その後、早稲田大学の教授として、幅広い知識と最新の知識をもって教壇に立ちました。
また、歴史文化・宗教・生物学・医学など幅広い知識に造詣が深く、生涯に16冊の本を執筆しています。寄稿論文を含めると数千もの論文を執筆しました。

「政治家」としては、1924年(大正13年)の第15回衆議院総選挙に宮城県より立候補して47才で政治家となりました。
政治理念として「労働問題」「女子の地位向上」「教育問題」等に戦前より力を入れて取り組みました。
60才になると文部政務次官、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで衆議院副議長を務めました。

戦前の日本で富谷で育ち、世界に目を向け、常に学びと研究の「向上心」の先の新しい世界を夢見ていました。

Q3 生家の醤油店ってなんですか?

江戸時代に奥州街道の富谷宿として栄えた、しんまち地区にあった「内ヶ崎醤油店」が内ヶ崎作三郎が生まれ育った場所です。
「内ヶ崎醤油店」は、江戸時代の1827年(文政10年)に穀物問屋を創業し、1864年(元治元年)に味噌醤油業を開業しました。内ヶ崎作三郎も醤油店の5代目として後を継いだ事になっており、伝統の味を守る産業人でもありました。
しかし、広く家庭の調味料として親しまれてきましたが、2008年(平成20年)に181年の歴史に幕をおろしました。

Q4 このような方がいた事を初めて知ったのですが?

内ヶ崎作三郎という人物は、宮城県はもとより富谷市内でも知られていません。
これまで、内ヶ崎作三郎について先行研究が無かった他に多くの資料が残っていませんでした。また、宗教や政治という難しい内容であった事で一般に普及しなかった等、理由がありました。
そんな中で、生家である「内ヶ崎醤油店」を整備する事にともない、富谷市学芸員の立会いの下、文化財調査を行ったところ多くの内ヶ崎作三郎に関連する資料が見つかりました。そこで、生家に「内ヶ崎作三郎記念館」を整備し、生涯などを分かりやすく展示することにしています。

郷土の偉人の業績を知り、後世に伝えるために、ぜひ記念館においでください。

Q5 『人生学』ってなんですか?

内ヶ崎作三郎が1926年(大正15年)の49才の時に執筆したものが『人生学』です。
作三郎の生涯で一番最後に執筆した書籍がこの『人生学』で、人生をより良く生きるためにはどのような心持ちが必要なのか、大切なことは何かを記しています。
Q2の「学者」でも述べたように幅広い知識を持っていた作三郎は、キリスト教だけの教えだけでは無く先人たちの知恵や言葉、医学・化学・心理学など多様な知識から第一次世界大戦後の混沌とした世界や世の中を生き抜く考えを示しています。
作三郎の『人生学』は下記の国立国会図書館のデジタルコレクションでも観ることができます。

著者:内ケ崎作三郎、『人生学』、1926年2月、教育研究会<外部リンク>  

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